トロント・インターナショナル・ポルノ・フェスティバルに行ってきた

22 4月

「トロント・インターナショナル・ポルノ・フェスティバルに行かない?」

とても急な誘いだったが、アダルトビデオで育った自分には断れるはずもなく、気付いた時には映画館でポップコーンを食べながらビッグスクリーンでポルノ鑑賞を楽しんでいた。

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トロント・インターナショナル・ポルノ・フェスティバル(Toronto International Porn Festival)は、2006年から毎年トロントで開催されてきたフェミニスト・ポルノ・アワードから発展したイベントである。メインストリームなアダルドビデオ業界ではなかなか見られない多様性に富んだオルタナティブなポルノを祝福し、そうした作品を製作する人たちを支えるイベントである。

正直なところ、どんなポルノが上映されるのか予想もできなかったが、期待した以上に素敵なイベントだった。この『Having My Cake』という作品では美味しそうなフレンチペストリーと共にクィアでクリーミィなセックスを楽しんでいて、カラフルなセットとレトロな音楽にうっとりしてしまった。また、『50 Shades of A Tranny』はトランスジェンダー女性とトランスジェンダー男性のストレートカップルのセックスを収録した作品はジェンダーやセクシュアリティの既成概念に挑戦していてとても興味深かった。

そんな作品たちの中でも、一番のハイライトは『Etage X』である。故障したエレベーターの中に閉じ込められた年上の女性二人は、衝動を抑えられずに過激なプレイに手を出してしまう。ポルノというよりショートフィルムに近い作品だが、セクシュアルなエナジーを上手に捉えていて、最後の最後までドキドキして見てしまった。

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こうしてポルノを鑑賞するのは自分にとっても初めての経験である。他の観客と一緒に感じて、笑って、歓声を上げるのはとても楽しかった。思春期の頃からポルノはオナニーするために消費するもので、こうやって映像作品として観察する機会なんてなかった。何より、こうしてフェミニズムや反差別なテーマが反映されたポルノに触れる機会さえなかった。このイベントに参加して、実に多種多様なポルノを見て、自分のポルノとの向き合い方を改めて考えることができた。それだけでも価値ある経験である。

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トロント・インターナショナル・ポルノ・フェスティバル、来年も楽しみだ。

映画の中の人種問題?実写版・攻殻機動隊『ゴースト・イン・ザ・シェル』と『ゲット・アウト』

16 4月

黒人コミュニティにスポットライトを当て、さらに同性愛をテーマにしている低予算映画『ムーンライト』が、アカデミー賞で作品賞最有力候補だと思われていた『ラ・ラ・ランド』を退けてアカデミー賞作品賞を獲得した。2006年のゲイカウボーイ映画『ブロークバック・マウンテン』がアカデミー賞作品賞を獲得できなかったのがもう11年前であるというから驚きだ。そう考えると、この11年でいろんなことが変わったように思える。

そんな『ムーンライト』の横で、『ゴースト・イン・ザ・シェル』は白い目で見られている。世界的にカルト的な人気を誇る1995年の日本のアニメ映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』のハリウッド実写版である本作は既に失敗作の烙印が押されている。

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映画自体がそもそも面白くないという評価以上に、『ゴースト・イン・ザ・シェル』はホワイト・ウォッシュだと指摘されてネガティブなイメージが一気に広がってしまった。ホワイト・ウォッシュというのは、現代のニューヨークを舞台にした映画なのに白人のキャラクターしか登場しなかったり、原作では有色人種であったキャラクターなのに白人に書き換えられてしまう行為を指す。スカーレット・ヨハンソンが草薙素子を演じると発表されてから、ホワイト・ウォッシュ問題に関する議論が一気に盛り上がり、本作の商業的失敗に繋がった原因の一つになったと考えられている。

白人俳優が日本人のキャラクターを演じること自体に問題はないと考える人は多い。しかし、こうした問題を分析するには歴史や社会背景を考える必要がある。有色人種のキャラクターはハリウッドで侮辱されてきた歴史がある上に、北米では今でも有色人種をメディアで目にする機会が少ない。アジア人や黒人のキャラクターはステレオタイプのままだったり、ホラー映画で真っ先に殺されたりする。

こうしたメディアはただの娯楽だからと軽視はできない。ホワイト・ウォッシュは見えにくい人種差別の一種である。自分自身と同じ人種をメディアで見ないことで、子供の自尊心の発育にも悪影響が出るとも言われている。そして、映画の中の黒人がいつも危険なギャングとして登場すれば、そのイメージが定着して、実際に「黒人=暴力的で危険」という潜在意識を植え付けかねない。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』のホワイト・ウォッシュ問題をもっと悪化させたのが、原作を手がけた押井守がスカーレット・ヨハンソンが演じる草薙素子に太鼓判を押したというニュースである。押井守や他の日本人が問題ないと言っているのに、どうしてホワイト・ウォッシュだと騒ぐ必要があるのかという批判の声が登場し、火に油を注ぐことになった。しかし、この問題はスカーレット・ヨハンソンの演技の問題でもないし、押井守の個人的な見解で解決できる問題でもない。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』はハリウッドがずっと抱えている人種問題の一角である。たまたま運悪くスポットライトが当たっただけで、『ゴースト・イン・ザ・シェル』自体の問題よりも、それが体現するもっと大きな社会問題を見ていく必要がある。そして、北米のアジア系コミュニティが最も影響を受ける問題であるにも関わらず、日本にいる日本人の声で正当化したところで火が消えるわけではない。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』とは対照的に、今の北米の人種問題をとことん風刺したスリラーホラー映画『ゲット・アウト』は大ヒット中である。

『ローズマリーの赤ちゃん』や『ステップフォードの妻たち』といったホラー映画をオマージュした本作は、まさに今の北米のパロディである。映画として面白い上に、上手に人種問題が盛り込んであって、トランプ政権で揺れる今のアメリカにふさわしい作品である。これがここまで大ヒットしているのも、ここ数年の社会背景があるからなのだろう。この映画が日本や中国で公開されて、どのように受け止められるのかとても楽しみである。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』が商業的に失敗し、『ムーンライト』や『ゲットアウト』といった作品が成功したことで、これからのハリウッドにも変化が現れると願いたい。白人を主役に据えないと映画は商業的に成功しないという言い訳はもう通用しない。

オールジェンダー・ハッテン場ナイトに行ってきた

10 4月

トロントのオールジェンダー・ハッテン場ナイトにずっと行ってみたかった。男性向けのハッテン場にはあんまり興味を持てずにいたが、オールジェンダーならまた違う雰囲気が楽しめそうだったからだ。イベントのイメージデザインも、いかにもセックスを素直に楽しむ人が集いそうな感じである。

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日曜日の夕方、チャーチストリートのバーで友達とビールを飲んだ後、オアシス・アクアラウンジに足を踏み入れた。この建物はクラブ・トロントという歴史あるハッテン場だったが、数年前にストレート向けの高級セックスクラブに生まれ変わった。屋外温水プールやジャグジーもあって、男性向けのハッテン場と比べて設備も充実している。

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ここで毎月開催されるオールジェンダー・ナイトは世界でも珍しいイベントである。トランスジェンダーも、ストレートも、ゲイも、レズビアンも、バイセクシュアルも、パンセクシュアルも、ジェンダークィアも、同じ空間で同じ空気をシェアして性的な生き物として交わることができる。イメージ的には映画『ショートバス』に登場する同名のサロンに近いのかもしれない。10年前、この映画を見てからずっとそんな場所で遊んでみたいと思っていた。いよいよドリーム・カム・トゥルーなるか。

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腰にタオルを巻いて、まずは体を温めようとサウナのドアを開けると若い男女のカップルがパコンパコン挿入を楽しんでいる。

「階段とトイレ以外の場所ならどこでやってもOKよ!」

受付のスタッフがそう教えてくれたが、まさかいきなりセックスをしている人たちと遭遇するとは思っていなかった。生で男女のカップルのセックスを見るのは下手したらこれが初めてかもしれない。動揺してどうすればいいかわからない。

何事もなかったかのようにサウナのドアを閉じてジャグジーに移動すればいいものの、あまりの衝撃に混乱してサウナの中に入ってしまった。すぐ隣で喘ぐ二人のことを頭の中でシャットアウトして、目を瞑ってサウナの熱気を吸い込んだ。

「2秒だけ我慢して…気持ちいいから。」

「うん。あっ…」

「ほら、言った通りでしょ。気持ちよかった?」

そんな会話が聞こえて気になって仕方がない。2秒で気持ちよくなれるテクニックって何なのだ。図々しく会話に割り込んで聞いたら失礼だろうか。そんなことを考えながら、超楽しそうなカップルの生々しいセックスを最後まで耳で堪能した。

オールジェンダーだと誰がどんなアイデンティティなのかも簡単に推測できない。ジャグジーで横に座っているアジア系のイケメン君と目が何回も合うから、もしかしたら脈ありなのかもしれないと次の手を考えていると、彼は向こう側に座っている女性とキスを始めた。別に女性とキスしたから彼がストレートだということではないが、慣れない光景に少し驚いてしまった。こんなミックススペースでどうやって他の男性にアプローチすればいいのだろう。ゲイバブルの中で暮らしている自分にとっては未知の領域である。

青空が星空に変わった頃、屋外プールは満員になっていた。周りを見渡すと本当にいろんな人たちがいる。ハイヒールが素敵な女王様とギラギラなドラァグクイーンが世間話をする横で、ポリアモリーのゲイカップルが他の男性たちとキスを楽しんでいる。ラウンジエリアでは過激なSMプレイに励む人たちもいれば、まったり添い寝している人たちもいる。とても自由で、セックスポジティブで、リラックスした空気が漂う中で、たくさん笑顔を見かけた。こんな不思議なイベントは初めてだ。今までに行ったどのハッテン場にも似ていない。

時計を見ると10時過ぎになっていた。次の日は仕事なのでそろそろ帰る時間である。入場料$20も払って何もしないで帰るのは勿体無いが、予想外に満足していた。遊ぶ相手を見つけられずにジャグジーに入り過ぎて指がシワシワである。それでも、次の機会があればまたぜひ参加したい。今度こそ、勇気を出してあのアジア系のイケメン君にアプローチできるかもしれない。

「みんなちがって みんないい」で話を終わらせてはいけない

9 4月

ケンダル・ジェンナーが出演するペプシの最新CMが大炎上し、放送中止となった。どんなCMかといえば、写真撮影で忙しいケンダル・ジェンナーが繁華街を賑わすデモ行進にインスパイアされて、仕事を放棄してデモ行進に参加し、デモ行進を睨みつける警察にペプシブランドのコーラを手渡して、それを飲んだ警察官が笑顔になって一気にみんなパーティムードで大騒ぎ。そんな一見ポジティブなCMはどうしてこんなに批判されているのだろうか。

このCMはきっと政治的に敏感な今時の若者をターゲットしようとしたのだろう。今の北米で問題になっている警察による黒人コミュニティへの暴力行為やイスラム系移民に対する入国拒否などの深刻な課題と、それに対して立ち上がる数々のデモ行進を反映させようとしたものの、あまりに的外れな内容になってしまった。CMの制作を担当した人たちの知識やリサーチが足りなかったのか、このCMに登場するデモ行進は現実離れしててストリートパーティにしか見えない。その上に、逮捕されたり命を落としかねないデモ行進を炭酸飲料を売るために美化するのも不快である。そんなツッコミどころ満載なCMだが、この記事ではそのCMが掲げるメッセージに注目したい。

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「多様な私たちだって(ペプシのコーラが好きという)共通点があって、それを通して繋がれば人間として共に違いを乗り越えられる!」

ペプシが意図したメッセージはきっとこんなところだろう。このメッセージだけに関して言えば特に問題はないかのように見える。ダイバーシティや多文化共生を想像した時に、肌の色や服装が違う人たちが手を繋いで仲良くしている絵をイメージする人は多い。教科書やメディアでもそんな素敵な描写がよく使われる。しかし、残念ながらこの世界はそんなにシンプルではない。こんな人生バラ色のCMが流れている側で、黒人が警察から射殺されて、イスラム教徒が入国拒否で家族から引き離されて、トランスジェンダーの高校生がいじめられて自殺している。現実のデモ行進に参加している黒人が警察にアプローチしてペプシのコーラを手渡せば、何が起こるのかは言うまでもない。社会背景を無視して安易にこんなCMを流せば、実際の問題解決の邪魔にもなりかねない。綺麗事とはまさにこんなCMを指す言葉である。

こうやって表面的なダイバーシティを促進しても、この社会が抱える人種問題やその他の差別の解決に結びつくとは限らない。本当に厄介な差別や偏見は、社会を動かす歯車の中に組み込まれていて見えにくい。だから、差別自体に気付かない人がたくさんいる。差別的な言葉が使われなくなったり、肌の色で使えるトイレが決められてなかったり、同性婚が認められたりしたところで、それで差別がなくなったわけではない。人種差別や性差別は根強く現代社会に生きる人たちを影響している。グーグルは2014年に社員のデータを公表し、多様性が欠如している白人男性中心の現状を改善すると宣言した。2014年以前からもダイバーシティ戦略を促進していたグーグルでさえ、女性や有色人種の地位向上に苦戦しているのだ。

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綺麗事ばかり並べて何か成し遂げられたと気持ちよくなるだけなら誰だってできる。それで社会が変わるならもうとっくに変わっているだろう。ダイバーシティは綺麗事ではなくて、汚れ仕事である。社会問題に目を向けて、自分がそれに加担していると自覚して、反差別の姿勢を取るのは気持ちのいいプロセスではない。だから、ネガティブな感情を避けるために目を背ける人も多い。問題解決に取り組むよりも、「人間はみんな平等」とか「みんなちがって みんないい」という気持ちのいい言葉の方が魅力的なのだろう。しかし、実際に差別に直面している人たちにとって、そんな言葉は傷口に塩を塗るように聞こえてしまう。

いつか、「みんなちがって みんないい」という言葉が似合う世界が訪れるだろう。ただ、それまではこの言葉で止まってはいけない。この言葉で実際に苦しんでいる人たちの存在を片付けてはいけない。

アジア系の英語教師と白人の英語教師、どっちが有能?

19 3月

上海で英語教師の求人に応募したメイ(仮名)は、見た目がアジア系だという理由だけで、白人英語教師がもらえる給料より約半分の給料で雇われることになった。二回のスカイプ面接と30分のデモンストレーションを経て、彼女は仕事のオファーをもらった。

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この英語教育会社で英語教師として務める場合、経験によって時給100-180人民元を約束されている。面接時、メイは時給125人民元以下で働くつもりはないと伝えていたが、仕事のオファーのメールでは時給75人民元にカットされていた。この会社では同じ英語教師でも中国人の場合は時給40-80人民元しかもらえない。そして、アジア系であるメイは中国人に見えるという理由から、中国人英語教師と同じ扱いになり、給料が半額になった。彼女曰く、このような差別はこれが初めてではないという。

英語教員の資格を取得するために上海に滞在していたメイは、英語をまともに話せない白人が英会話を教えている場面をたくさん見てきたという。肌の色のおかげで高い給料をもらえる仕事にありつけたと誇らしげに自慢する人と話す度に、彼女は中国に深く根付く白人至上主義を痛感した。いくら文法が崩れていても、アクセントが濃くても、見た目が白人なら問題にはならないことが多い。一方で、英語を第一言語として話し、英語教員の資格を持つ彼女はアジア系という見た目が理由で白人の英語教師と同じ土俵にも立てない。

英語圏がどんどんマルチカルチャーになっているにも関わらず、英語を最も流暢に話せるネイティブ話者が白人だというイメージは未だに残っている。中国に限らず、韓国や日本でも白人の英語教師が優遇を受けるケースが多い。英会話教室の広告では白人のモデルが使われることが特に多く、英語教師=白人だというバイアスを助長している。アジアでは有色人種の英語教師が教育現場で不平等に扱われる経験をすることは珍しくない。

北米でも有色人種は同じような差別に直面している。ライアソン大学が今年発表した調査研究リポートによると、アジア系の名前の履歴書で求人に応募した場合、同じ学歴と仕事経験を持っていたとしても、白人の名前の履歴書より32.6%も返事をもらえる確率が低いという結果が明らかになった。さらに、大学院卒という学歴があってやっと、アジア系の名前の履歴書は大学卒の白人の名前の履歴書と同じ確率で返事がもらえるようになった。有色人種が北米で不利な扱いを受けるという問題はヘルスケアや教育機関などに関する調査でも同じような結果が確認されている。

国際化が進んでいく社会で、未だに肌の色で能力を判断されてしまうのは残念なことだ。結局、メイは時給75人民元という英語教師の仕事のオファーを断り、他の仕事を探すことに決めた。彼女の能力が評価される職場に出会えるように祈っている。

理想の仕事を求めて

2 1月

「もし理想の仕事を選べたら、何がしたい?」

数年前、この質問を聞かれて自信満々に当時していた仕事がそうだと答えることができた。正直な気持ちだった。2016年に入って、自分の答えは変わっていた。次の一歩に進むべきだと決心して、仕事をやめて転職活動を始めた

2009年からトロントでやってきた仕事で積んだ経験のおかげで、様々な道を進む選択肢があった。公衆衛生の経験を活かして、コミュニティや政府でヘルスプロモーションの仕事を続けることもできる。NPOのプログラムを運営する経験を活かして、他のNPOで管理職を探すこともできる。マーケティングとコミュニケーションの経験やプロジェクトをまとめる経験を活かして、全く違う分野でキャリアをスタートさせることもできる。そんな分かれ道を前にして、どうすればいいのかわからなかった。どこに向かえば本気で愛せる仕事と巡り会えるのかなんて見当もつかなかった。

もう一つ選べる道もあったが、自分は意図的にそれを避けていた。反差別教育やダイバーシティ戦略の仕事である。自分の過去の仕事では、人種差別、ホモフォビア、トランスフォビア、障がい者差別、HIVやメンタルヘルスに対する偏見などの問題を毎日のように扱っていた。コンサルタントとして、他の団体や職場でダイバーシティの促進を手伝ったり、教育プログラムを提供したりしていた。だからこそ、この仕事の難しさもよく理解していた。そんな困難な問題を自分が扱えるのか自信もなかった。足を踏み出す前から白旗を上げていた。

2016年は、方向性の違う可能性に直面して迷子になった一年だった。何度も方向転換をしたが、その度に壁にぶつかった。自分のスキルにぴったりなNPOの仕事があっても最終面接で何度も落ちた。大手企業やスタートアップに転職を試みるも興味が持てる仕事がほとんどなかった。自分の仕事が会社の利益向上に繋がったところで、それがモチベーションにならないのはわかっていた。年収が大幅に増えたところで、それイコール自分の幸せではないことも知っていた。萎んでいく可能性を目にしてますます迷った。

ある日、友達から仕事の依頼があった。次の日のイベントのために雇ったフォトグラファーにドタキャンされて友達は困っていた。他の人がいないので、フォトグラファーをやってくれないかと頼まれた。趣味で少し写真を撮る程度の自分だったが、そんなきっかけでプロフェッショナルなイベントで給料をもらって写真を撮ることになった。失敗しては大変だとプレッシャーを感じつつ、一生懸命にシャッターボタンを押した。たまたま、そのイベントは大手企業でダイバーシティ戦略を率いるリーダーによるパネルディスカッションであった。

「今の時代、ゲイなら何も差別は受けないだろう。」

某大手銀行のダイバーシティ戦略を担当する人の言葉である。その銀行に勤めればホモフォビアに出会うことがないという意味なのだろうか。有色人種のゲイでも差別は受けないのか。トランスジェンダーのゲイでも差別を受けないのか。総合失調症と共に生きているゲイでも差別を受けないのか。カメラを抱えながら、そんなことばかり考えていた。大手銀行で桁違いの年収をもらうストレートの白人男性である彼の視点からは、きっとそう見えるのかもしれない。彼が語るダイバーシティがお金儲けのための表面的なものであって、実際に差別問題に取り組むためのものではないと気付くのに時間はかからなかった。その彼の言葉がきっかけになったのかもしれない。勢いに任せて、締め切り間近に反差別教育を導入する仕事の求人募集に履歴書とカバーレターを提出した。

数日後、連絡をもらって面接に招かれた。予想外のことに少しビックリした。面接では、用意したダイバーシティ戦略と反差別教育のプランをプレゼンテーションで説明しつつ、今までの仕事でLGBT、HIV/エイズ、メンタルヘルス、貧困問題と様々な社会問題に取り組んできた経験を話した。そして、自分がゲイで、有色人種で、移民であるということも全て曝け出した。自分の最もパーソナルな部分とプロフェッショナルな部分の接点となるこの仕事がいかに自分にとって大切か力説した。その熱意が伝わったのか、それともたまたまラッキーだったのか、まさかの仕事のオファーをもらった。

明日は仕事初日である。これが自分にとって理想の仕事なのかはわからないが、とてもワクワクしている。自分から遠ざけていた仕事とこうしてまた巡り会うのは不思議な気分である。説明のできない引力が働いているのだろうと周りは言うが、きっと偶然が重なっただけだろう。隣国のアメリカでトランプ政権が暴れる側で、カナダも多様性に対するバックラッシュが起きている。そんなタイミングで反差別に取り組むのも興味深い。いずれにしても、これで前に進む道は開いた。後は一生懸命に前進するのみである。

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そんなわけで、2017年もよろしくお願いします!

血が繋がっている家族だからって、無理して親しい関係を保つ必要はない

20 12月

数日前にこんなツイートを書いたら、予想以上に反響があってビックリした。

140字だけでは説明しきれない複雑な問題だから、ブログでもっと説明したい。

子供の頃から、家族は何よりも大切だと教わってきた。うちは父と母の三人家族だったが、親戚も含めると大家族に膨れ上がった。年末年始は特にみんなで集まることが多かった。美味しい食事がたくさんあって、いとこたちと馬鹿騒ぎできるのは楽しかったが、そうではないことも多かった。絵を描くのが好きだったから、理系だらけの家族から「文系に進んではいけない」という親切な忠告をもらうことがよくあった。男らしくないとされる遊びが好きな自分は、周りからの冷たい視線にも敏感だった。こうした小さな摩擦から始まって、年齢を重ねる度に自分の居場所の面積が減っていくのを痛感した。

ゲイであると知られるのを恐れて、自分から距離を作ったのもある。大学に入学したものの、文系を選んだことでがっかりされたのもある。重い病を患っていた父と反抗期の自分の悪化した関係を理解されなかったのもある。理由が山ほど重なって、家族の集まりが息苦しい環境になった。家族からすれば好意のつもりでも、自分の視点からは鋭いナイフにしか感じられないことも多かった。相手の好意を断れば失礼で、受け取れば自分が傷付いた。血の繋がった家族だという理由だけで、そこから離れるという選択肢はないと思っていた。だから、余計に苦しんだ。

自立してくると、そこから抜け出そうとして外の世界に手を差し伸べた。友達と過ごす時間が増えて、コミュニティでボランティアする機会も多くなった。そうやって心のバランスを保っていたのだろう。ところが、家族以外のことに時間を費やす自分は家族にとって裏切り者のような存在になった。家族と距離を取るなんて冷血な人だ。家族なんだからもっと関係を保つために努力したらどうだ。私たち家族の気持ちを考えられないのか。家族から、他の人から、そんな言葉をたくさんもらった。その家族の関係が悪化したのはすべて私のせいだと彼らは言う。少なくともそう聞こえた。私だって好きじゃないけど家族のために我慢してるんだから、君も我慢するべきだ。そんなアドバイスまでもらった。そうやって「家族」という言葉が都合良く使われることに納得ができなかった。血が繋がっているからって、相手をリスペクトしなくてもいいのか。血が繋がっているからって、自分をリスペクトしてくれない人を我慢する必要があるのか。

LGBTコミュニティに参加するようになって、同じように家族との関係に悩む人たちとたくさん出会った。自分が抱えていた問題なんて、他の人に比べれば全然平和だと知った。こうして似たような痛みを共有できることで、心にのしかかっていたものがだいぶ軽くなった。そんなLGBTコミュニティで、チョーズンファミリーというコンセプトも学んだ。直訳すれば自分で選ぶ家族という意味である。差別や偏見、その他の理由で血の繋がった家族と上手に関係を結べない人はたくさんいる。家族と遠く離れた移民や難民の人だっている。彼らは家族のようなコミュニティを自分の周りに築いて、お互いをサポートしている。その形は様々だ。クリスマスという時期は家族に恵まれていない人たちにとってはつらい時期である。そんな時に、チョーズンファミリーと一緒に食事ができるだけで救われる人は少なくない。多くのLGBTグループはクリスマス当日にイベントを主催する。チョーズンファミリーの重要さを理解しているからだ。

この歳になって、母とは健康的な関係を築けるまでになった。その関係にはたくさんの時間と労力を費やした。秘訣はやはり、母が自分を家族の一員としてだけではなく、一個人としてもリスペクトしてくれるようになったからだ。「母だから」という理由だけで価値観を押し付けられることは減って、より対等な関係になった。それは「伝統的な」親子の関係とは少しズレているかもしれないが、私たちにはピッタリのようだ。血が繋がっているという理由で、私たちは「家族」という箱の中に入れられてしまう。その箱の中身は選びたくても選べないことの方が多い。それを素敵な場所だと感じる人もいれば、地獄だと考える人もいる。家族とは難しいものだ。

血が繋がっている家族だからって、無理して親しい関係を保つ必要はない。これは今の自分だから自信を持って口にできる言葉だ。長い間、そうやって生きてきた自分に罪悪感を感じていた。しかし、もうそれを悪いことだとは考えていない。どんな形の家族に価値を見出すのか、どんな家族関係を築くのか、それは個人の自由である。こうした方が絶対良いという魔法のレシピはない。その選択はリスペクトされるべきだ。

年末年始は多くの人にとって家族との距離が近くなる時期だ。家族という枠組みの中で、集団的な価値観を押し付けられやすい環境でもある。逃げたくても逃げられない状況もあるかもしれない。そんな時に、自分のために立ち上がったり、その場を去るという選択肢だってあることを忘れないでほしい。そして、家族に対する罪悪感を自分の足枷にする必要はない。

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年末年始、セルフケアを忘れずに。