最近、「kink at Pride」論争がまた大きな波紋を呼んでいる。「kink」といえば、SMが大好きな女王様やレザーダディーみたいな人たちをイメージする人は多いだろう。実際なところはSMも含め、もっと広い意味で変態的で型破りな性行為やフェチを指している。特定の体の部位(例:足)、体液(例:尿)、素材(例:ラテックス)、感触(例:痛み)やコスプレ(例:制服)など、「フツー」の性行為から外れた行為はすべて「kink」に含まれる。LGBT、シス、ヘテロ関係なしに人は「kink」を嗜むが、LGBTコミュニティと「kink」は深く結びついていると考える人も多い。ここ数年、プライドというスペースでの「kink」の是非が大きな論点となっている。セックスポジティブで大変態であるキャシーだけど、この問題は非常に複雑でなかなかグレーなので、どの立場を支持すればいいのかずっと迷っている。今週末はトロントのプライド週末(パンデミックでキャンセルされたけど)だから、ブログを書きながら考えてみたい。

まず、プライドとは何なのかについて考える必要がある。トロントの場合、LGBTコミュニティに対する差別や暴力に抗議するためのデモ運動だという本来の政治的なアイデンティティを残しつつ、プライドはさらに大きな存在になっている。LGBTを可視化し祝福する祭典だと考える人もいれば、LGBTコミュニティや彼らの家族と友人が集うイベントでもあって、初めてLGBTというコンセプトに触れる入り口みたいな役割も果たしている。プライドのメインストリーム化に伴って、パレードを見に来る子供連れの家族やイベントに参加する未成年も増えた。LGBTで子供を持つ家庭も増えている。そうやってプライドの参加者が多様化している中、プライドの性的な部分とのバランスを取るのが年々難しくなっている。シンプルにまとめると、プライドに参加する子供や未成年を守るべきだという声と、多様な性やセックスを開放するためのプライドで「kink」を全面に打ち出して何が悪いという声に分かれている。もちろん、「プライドに子供を連れてくるな」といった意見もあるが、この問題はもっといろんな角度から考える必要がある。
キャシーがLGBTユース支援の仕事をしていた頃、セーフスペースを提供するのはとても大切なコミュニティの役目だった。特にゲイコミュニティは性的な側面にスポットライトが当たりやすいので、そこから入ってしまって、羞恥心や罪悪感を感じながらアイデンティティを形成してしまうケースは珍しくない。自分の場合、15歳からゲイの掲示板で知り合った人たちと性的なやり取りを通してゲイがどういうものなのかを理解しようとしたせいか、凄く遠回りしてしまった。インターネットがさらに発達した今、もっと幼い子供がそうしたコンテンツや出会いに簡単にアクセスできてしまう。場合によっては、危険なことに巻き込まれる可能性だってある。だから、他のLGBTユースと知り合えて、自分たちの体験を共有できる「極端に性的ではない」スペースが必要となってくる。そうしたスペースで、自分のペースでセクシュアリティやジェンダーを学べて、性教育にも触れることで、様々な経験と一緒に自分のアイデンティティをより安全な環境の中で形成できる。例えば、日本だとにじーずのような居場所がある。プライドでも、ゲイやトランスの子供が気軽に行けるセーフスペースはあって欲しい。実際、トロントプライドではファミリープライドといったスペースがちゃんと存在する。
一方で、「子供を守る」という主張は保守派がLGBTコミュニティを抑圧するためによく使う手口でもあって、気を付けないと変な方向に持っていかれてしまう可能性もある。これはリル・ナズ・Xの新曲「モンテロ(コール・ミー・バイ・ユア・ネーム)」のバックラッシュでも記憶に新しい。トロントでは、2011年まで毎年8月にゲイヴィレッジでフェティッシュ・フェアという「kink」なイベントが開催されていた(下の写真は2008年のフェティッシュ・フェアの様子)。様々なSMプレイや見たことのないセックストイの実演を青空の下で見れて、なかなか過激で楽しいイベントだった。しかし、もっとゲイヴィレッジでファミリーフレンドリーな催しを増やしたいという理由で、2012年からフェティッシュ・フェアは無難なヴィレッジ・フェアになった。LGBTコミュニティではない人たちを呼び寄せて、ビシネスの売り上げやスポンサーの増加を狙った戦略によって居場所を奪われた「kink」コミュニティからは批判の声が上がった。

こうした変化をLGBTコミュニティの「衛生化」だと危惧する意見もある。社会からはみ出たコミュニティの居場所のために戦ってきたLGBT運動が、ある程度社会に許容されたことで変化よりも現状維持に流されてしまって、「許容されるLGBT」と「許容されないLGBT」にコミュニティが分断されてしまう。広告に登場する笑顔が素敵なミドルクラスのゲイカップルやスーツを格好良く着こなしたトランスジェンダーがロールモデルとなって、デモ運動に参加するようなアクティビストや「kink」を楽しむ人たちは白い目で見られたりする。そして、「許容されない人たちが悪いんだ」という声がLGBTコミュニティ内で広がって、「彼らみたいな人がいるからLGBTは差別されるんだ」と都合よく責任転嫁されてしまう。こうした現象はリスペクタビリティ・ポリティクスと呼ばれたりする。

そもそも、社会的に許容される「性」とされない「性」の間にある境界線は時代によって変化するし、文化によっても変わってくる。例えば、トロントプライドにはヌーディスト(裸体主義者)も参加するが、彼らはただ単に裸で歩き回っているだけである。銭湯文化がある日本で子供の頃から他人の裸を見慣れた自分はそこまで気にならないが、拒否反応を示す友達も多い。ドラァグクイーンだって歴史を少し遡れば許容されない存在(許容されても笑い物にされていた)だったが、今では「ル・ポールのドラァグ・レース」の世界的な人気によってとんでもない人気者となった。だから、その時の社会の意見や視点で物事の良し悪しを判断するのは当てにならない。こうした議論はもっと長い目で分析するべきだし、様々な意見の裏にある動機や感情も考慮する必要がある。
結局、「kink at Pride」はアリなの?ナシなの?
正直なところ、すべて丸く収まる解決策は思い付かない。個人的に、プライドから「kink」が無くなるのも、LGBTの子供がプライドに参加できないのも、同じく大問題だと思っている。ただ、性的で政治的なプライドを尊重しつつ、LGBTの子供や未成年が参加しやすいセーフスペースも意図的に作っていくのは難しい。そのバランスを上手く保つためには、対話を絶やさずに試行錯誤していくしかないのかもしれない。プライドを取り巻く社会が変わって、LGBTコミュニティ自体も変わっていく中で、コミュニティのニーズを考慮したアップデートが必要になってくる。ただ、アップデートの際に社会に存在する力関係、差別、偏見などに流されたら、プライドをあっという間に奪われてしまうリスクがある。来年、トロントのプライドが再開することになったら、LGBTコミュニティはどのような結論に至るのだろう。