自分はもう若くない。最近、ふと気付くようになった。カラオケで十八番の高音が出なくなっちゃったし、夜更かしなんてとても耐えられない。若いゲイと飲めば「ダディ」扱いされるし、二日酔いはどちらかといえば四日酔いである。自分の世代の歌姫たちがいつのまにか「過去の人」扱いされているし、最近流行ってる邦楽のアーティストに全然追い付けていない。そうやって現実と向き合ってはショックを受けている。そう、未だに自分が30代だという実感がないのよ。
「うちらって、いつから楽観的じゃなくなった?昔は文句ばかり言ってなかったよね?」
最近、コミュニティで活動している友人からもらった質問である。別分野で働く私たちだが、非営利団体と関わる仕事での苦悩と苛立ちを共有することがよくあって、プライベートでよく愚痴をこぼしている。彼はキャシーと同い年で、トロントにやってきたのも同じ頃。10年以上前、あたしが瞳を輝かせながらLGBTコミュニティで働くのに全力だった頃、彼も社会を変えるために燃えていた。もちろん、今でも私たちの目標は変わっていないが、様々な経験を重ねて擦れてしまったことも事実だ。昔の自分と比べたら、今は様々なリスクを考慮して、効率の良い行動を選びがちになっている。もうすっかりビターなオトナである。
20代の頃は、猪突猛進に目の前にあるもの全てに飛びかかっていた。社会問題に関心はあっても、理解はとても浅かった。例えば、LGBTが可視化されれば差別が減って、マイノリティの立場が良くなる。そんな考えで必死になっていた。もしも昔の自分と会話をする機会があったら、きっと「そんなにシンプルな問題じゃないよ」と説教を始めているかもしれない。実際、年上の活動家から当時の自分の活動を「楽観的だ」と否定される場面も幾度とあった。そうやってダメ出しされることに憤りを感じていたが、今の自分はその気持ちをよく理解できる。
経験と知識が増えていくと、目の前に立ちはだかる壁の大きさに絶望を感じて止まることが増えた。社会問題にずっと取り組んでいたり、勉強している人で、そう感じている人は私以外にも多いはずだ。そんな悲観的な視点で目がキラキラしている若い活動家を見れば、彼らの楽観的な姿勢に「ちょっと違うんじゃないか」と言いたくなってしまう。一方で、そうやって口出しをしてしまう自分も「ちょっと違うんじゃないか」と、そんな矛盾も感じている。
浅はかで楽観的な視点があったからこそ、勢いのある活動ができたのも事実である。今の自分からすれば、そんな希望に満ち溢れていた頃が羨ましいという気持ちもあるのかもしれない。もちろん、社会問題への理解が足りないが故に犯してしまう間違いなら指摘する必要がある。しかし、ただ単に楽観的だというだけで相手を否定してしまうのは、ビターなオトナの悪い部分が出ちゃっているのだろう。表面的な違いにばかり注目せずに、もっとお互いの共有している部分の方が大事なのだろう。そうやって心を開けば、過去の自分から学べるものもきっと多いだろう。
なんだか反省文みたいになっちゃったけど、結局は「初心を忘れるな」というシンプルなことだったのかもしれない。30代なんてまだまだ若いし、ハッテンの余地だってたくさんある。ビターなオトナと化するのはもっと遠い未来のお楽しみだ。それに、20代の頃の活動の写真(当時24歳)を見たら、記憶してたほど瞳も輝いてなかったわ。
