ゲイという自分を意識しなくてもいい社会

キャシーの日々ハッテンは​、トロントの日本語情報誌『Bits』(ビッツマガジン)で2011年から2017年まで連載されていたコラムです。

キャシーの日々ハッテン(コラム連載アーカイブ)
Day.99 ゲイという自分を意識しなくてもいい社会

ゲイ友達やリベラルな人たちに囲まれたバブルの中で生きていると、たまに自分がゲイであることを忘れてしまう。映画館で彼と寄り添ってラブコメを楽しんだり、ロマンチックなディナーを出かけたり、手をつないで繁華街を歩いても、自分にとってそれは日常の一コマに過ぎない。しかし、例えばすれ違い様にものすごい形相で睨まれたとする。その瞬間、自分がゲイであって、周りとは違って、未だに多くの差別や偏見があることを再認識させられる。バブルはあっという間に弾け飛んでしまう。

小さい頃から隠さなきゃと必死になっていた反動か、カミングアウトしてからはこれでもかと自分がゲイであるとアピールした。レインボーのアクセサリーを身につけない日はなかった。他人に「ゲイです」と言えて、どんなに嬉しかったか今でも鮮明に覚えている。そうした小さなことが積み重なって、自分自身をより受け入れることができるようになった。ところが、オープンなゲイとしてある程度生きていると、しだいにカミングアウトが億劫になった。別に隠したかったわけではない。カミングアウトの必要性に違和感を感じていたのだ。「ストレートの人はそんなことしないのに、どうしてわざわざゲイはアピールするの?」他人の痛みを理解しない人にいつかそんなことを言われて、ハッとしたのだ。自身がストレートであることを主張しなくても済むというのは、とても恵まれている証拠である。こっちだって、できれば自分がゲイだということを意識せずに生きたい。ただ、社会はそう簡単にはほっといてくれない。ゲイだとわかればそこしか見てくれないし、ゲイだとわからなければ存在自体を忘れられてしまう。そんな中で、私に残された選択肢は多くない。

ゲイだったり、人種だったり、障害だったり、人間はみんな少し違う。この社会に生きる私たちはその違いに敏感だ。そして、些細な違いは人間を「フツー」と「フツーじゃない」に分ける。そうやって偏見が生まれ、差別が起きて、暴力へとエスカレートしていく。もしも、そうした違いを受け入れることができたなら、社会はもっと暮らしやすい場所になっているだろう。自分のことを隠す必要がなく、なおかつ常に自分が周りとは違うと意識する必要もない。そんな世界で生きてみたいと夢見るのは贅沢なのだろうか。

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