セックス・アンド・ザ・キャシーは、LGBTのためのコミュニティサイト『2CHOPO』(にちょぽ)に2014年から2017年まで連載されていたコラムです。

セックス・アンド・ザ・キャシー(コラム連載アーカイブ)
第3回、自分のからだを愛することで、セックスはもっと気持ちよくなる
数年前だったか、知り合いの紹介でセックスのエキスパートによるゲイセックス講座に参加した。教室の扉を開けて中に入ると、若い人から年寄りまで生徒が10人ほどいた。この教室にいるということは、彼らはみんなゲイセックスを学びに来ているということだ。緊張が解けないまま席に座ると、講師も到着してさっそく自己紹介を始めた。なかなかタイプの方なので、もらった資料を確認する。「このセックス講座では実践はありません」との記載が目に入る。残念だ。
セックス講座でどんなに凄いテクニックを学べるのかと胸を躍らせていたら、一回目の授業はオナニーの話だけで終わった。授業で学んだことを使ってオナニーをしてくるようにと、宿題まで出されてしまった。それに疑問を感じたのは自分だけではなかったようで、隣に座っていた男の子が質問をした。「セックスのことを学びにきたのに、どうしてオナニーなんかしなきゃいけないんですか?」講師の方は手慣れた口調で答えた。「セックスを楽しむためには、まず自分のことを知って、自分を愛する必要があるからだ。」
その夜、シャワーを浴びてさっぱりした後、ローション片手に全裸でベッドに寝転んだ。「ちんこは最後の最後まで触らない」という宿題のルールを守って、普段は気にも留めていなかったからだのパーツを次々と優しくタッチしてみる。最初の数分間は、なんだか恥ずかしくて顔が真っ赤になった。しかし、それを続けていくと今まで知らなかった性感帯を見つけたり、意外な場所にホクロがあったり、様々な新発見があった。20年以上の付き合いがあったのに、自分のからだとこうして対峙したのは初めてだった。
思えば、今までこのからだとあんまり良い関係を築くことができなかった。運動神経が悪かったので、のろまとかまぬけとか子供の頃から良く呼ばれていた。他の人より毛深かったので、思春期の頃は真剣に全身脱毛を考えた。太りやすい体質な上に甘いもの好きなので、何度デブと言われたかは数えきれない。オカマっぽいと言われて、無理に男らしく振る舞ったりした。自分が気持ち悪いと思って、鏡を見れない時期まであった。そうしたネガティブな経験が折り重なって、大きな劣等感として心にのしかかった。客観的に見ると少し滑稽だが、自分のからだを摩ることで自分自身のことを全然愛せていないことにやっと気付いた。
そんな劣等感に悩む人は少なくないと言う。ルックス至上主義な現代社会は画像修正という武器を手に入れて、人間離れした完璧なモデルが雑誌の表紙を飾っている。美のハードルが恐ろしく高いのだ。スマホアプリを使った出会いでは、自分のプロフィールが常に数えきれないほどある他のプロフィールと比べられている。よく考えるとなかなか残酷である。実際、ゲイ男性はストレート男性に比べて数倍も摂食障害になりやすいという調査結果も出ている。もしかしたら、今の時代は自分や他人のルックスに対して最もシビアな世界なのかもしれない。金子みすずの有名な詩にあった「みんなちがって、みんないい」という言葉はもう時代遅れなのだろうか。
自分のことを劣っていると思っていると、自尊心にひびが入る。自己嫌悪に陥り、他人にも高いハードルを要求してしまう。自分を愛せなければ、自分を大事にできない。自暴自棄になって、自分の将来を考えずに取り返しのつかないことをしてしまう。この状態でいるのは凄く危険だ。最近は、エイズのリスクやセーファーセックスの重要性を良く知る人がHIVに感染することが多いらしい。なぜなら、知識があって、手元にコンドームがあっても、自分に価値がないと思ってはそれを使おうとしないからだ。
宿題のオナニーを終わらせた後、火照ったからだが冷めるまでそのまま余韻に浸っていた。自分のからだをもう一度触ってみる。プニプニしてたり、もじゃもじゃしてたり、カサカサだったり、とても完璧なからだではない。若い頃より、明らかに美しくない部分が増えた。このまま年を取れば、もっともっと増えるだろう。しかし、こうして自分のからだを改めて触れて妙に愛着も湧いた。なんだか、ずっと喧嘩してた長年の友達とやっと和解ができたような気分だ。目を閉じて、「別に完璧じゃなくてもいい。このままでもいいんだ」って自分に言い聞かせると、スッと力が抜けて眠りに落ちた。