トロントに住めなくなる日と、木綿のハンカチーフ

「そろそろトロントから追い出されるかもしれない。」

トロントのアネックス・エリアで、赤レンガが可愛い小さな家の二階に暮らしているレズビアン・カップルはいつかそんなことを話してくれた。アーティストとして活躍する二人はそれぞれ別にフルタイムでも働いている。平日の昼間は収入のために仕事をして、夕方や週末にアーティストとして活動をする。トロントの物価を考えると、アーティストとしての収入だけでは厳しいのだろう。しかし、高騰し続ける物価と家賃に彼女たちは限界を感じていて、長年住んで綺麗に装飾したアパートを離れる日も近いかもしれないと心配していた。そこの大家は少し前から着実にリノベーションを進めている。近いうちに売って、一儲けしようと考えているのだろう。こうやってトロントから追い出されて行く人はここ数年増えている。

2008年にトロントにやってきた当時、この街はアートに溢れていた。クィアやトランスのアーティストは数百ドルでシェアハウスの一室を借りて、近所のカフェで働きながら、アーティスト向けの補助金やアートで得た収入で生計を立てていた。当時はチャイナタウン周辺に行けば、数ドルでお腹いっぱいになれたから、貧乏な留学生だった自分も助かっていた。彼らのおかげで、トロント各地でクリエイティブなアートイベントが開催されていたし、身近にある様々なスペースでアートを楽しめた。そうやってトロントを盛り上げて来たアーティストたちの居場所がこの街から消えつつある現状は悲しい。自分が恋に落ちた街がどんどん変わっていく様を見ていると、「木綿のハンカチーフ」を歌いたくなってしまう。

都市のジェントリフィケーション(もっと詳しく知りたい方はこちら)という言葉を知ったのはトロントに来てからである。直訳すると紳士化だが、裕福化や高級化と考えるともっとわかりやすい。例えば、都市の経済開発が進むことで、古い建物が建て替えられて、富裕層が流れ込んで、地域の平均収入が上がる。ただ、同時に低所得層の立ち退きなどの問題を引き起こす要因となるので、収入格差が大きいトロントではジェントリフィケーションに対して批判的な声も大きい。

ナイーブだった自分は、低所得層が多いエリア(例えばトロントのパークデール付近)にスターバックスがオープンすることの問題点があまり理解できなった。月日が流れて、自分の収入は増えていないのに、物価や家賃は毎年上がるようになって、ジェントリフィケーションのインパクトを感じるようになった。近所にある行きつけの安いベーカリーが潰れて、いつの間にか高級レストラン(しかも美味しくない)になったのは悲しかった。長年トロントで暮らしてきたのに経済的な理由で郊外に移った友人も増えた。こんな自分の悩みも、ジェントリフィケーションによって立ち退きを強いられた人の経験と比べたら可愛いものである。

高騰し続けるトロントの不動産価値もジェントリフィケーションを推し進める大きな要因となっている。2008年なら40万カナダドル(約3,600万円)程度あればトロントで一軒家が買えたが、今は三倍の120万カナダドル(約一億円以上)に跳ね上がっている(ソースはこちら)。ダウンタウン周辺に絞ると今は120万カナダドルでも大した物件は買えない。トロントの低所得層が多いエリアは不動産開発の標的にもなっている。高層マンションを建てて周辺を“美化”することで、地域全体の価値も上がって、そこに投資している人たちが儲かる。そのせいで低所得層が住む場所を失っても、「治安が良くなった」と片付けられてしまう。

昨年、パンデミックが始まったことで、トロント各地に多数のテント・ヴィレッジが立ち上がった。新型コロナウイルスに感染するリスクを考えると、ホームレスシェルターに泊まるよりも、公園でテントで寝泊まりした方が安全だったのである。そもそも、パンデミックが始まる前からホームレスシェルターが足りてなかったため、こうなるのは目に見えていた。トロントのホームレス問題を理解している人たちの間では、テント・ヴィレッジをサポートする声が多い。しかし、トロント市警はテント・ヴィレッジの取り壊しを進めていて、テントで暮らす人たちは必死に抗争している。

ジェントリフィケーションや不動産価値の高騰化は低所得層やホームレスを追い詰めているだけではなく、平均以上の収入がある人にも大きな影響を与えている。ダウンタウン周辺のコンパクトなマンションに一人で住んでいる場合、収入の半分を家賃に持っていかれるケースも珍しくない。同棲して家賃を分担できるのはカップル特権なのだ。賃貸でも大変なのに、マイホームの夢なんて蜃気楼レベルである。ある友達は年収15万カナダドル(約1350万円)も稼いでいるのに、なかなかトロントの不動産には手が出せないと語っていた。「孫が欲しいなら、子供に家を買ってあげよう!」というキャッチコピーを掲げた不動産の広告は、トロントの厳しい現状を物語っている。

裕福な家庭からの支援金がない人は、宝クジで当てるか、タイムマシーンを開発して平均的なミドルクラスの収入でマイホームの夢が叶う時代に旅立つしかない。一部の人しか家を買えないほど不動産価値が高くなったことで、既に存在する格差がより広がってしまう環境が出来上がってしまった。お金持ちだけがもっと裕福になって、そうではない人はより生活が苦しくなるばかりである。「頑張ればなんとかなる」なんて綺麗事が通用しないほど、この壁は大きい。

世界的なIT企業の拠点であるシリコンバレーは、富裕層と貧困層の大きな格差でも知られている。富裕層に合わせて高騰した物価は、フルタイムで働いても生活が苦しいワーキングプアを生み出し、シリコンバレーで働いても生活を維持できない人は珍しくない。「次のシリコンバレー」と呼ばれているトロントでも既に同じような問題が起きているが、これからさらに厳しい未来が待ち構えているのだろうか。

ここで唯一の希望があるとすれば、ユニバーサル・ベーシック・インカムの導入である。要は基本所得保障で、全国民が生活に必要最低限の収入を得られるように、政府が不足分を現金給付でカバーする政策である。実際、カナダはパンデミック中にユニバーサル・ベーシック・インカムに似た支援(CERB)を試みており、これを機に本格的な導入を目指して欲しいという声も増えている。しかし、これもバンドエイドに過ぎず、根本的な問題解決には至らないと考えている。

こうやって資本主義の絵の具に染まってしまったトロントにフラれて、涙拭うための木綿のハンカチーフをねだる日も近いのかもしれない。

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