キャシーの日々ハッテンは、トロントの日本語情報誌『Bits』(ビッツマガジン)で2011年から2017年まで連載されていたコラムです。
キャシーの日々ハッテン(コラム連載アーカイブ)
Day.123 リベラルに見えるのに差別的な人
ゲイが大好きで、人種差別には断固反対だといつも口にしている友達は社会問題に超敏感だ。彼のツイッターは社会問題に関するリンクで溢れている。絵に描いたような今の若者である。そんな友達とコーヒーを飲みながら今話題の「黒人の命は重要だ」と訴えるBlack Lives Matter運動の話をしていると、彼の口から思わぬ言葉が飛び出した。世界中で反差別を主張する抗議活動に励んでいる黒人コミュニティのことを、目立ちすぎで生意気だから同情できないと彼は考えていた。
教育を通して市民権運動を学ぶ人が増えて、ソーシャルメディアで様々な情報がシェアされる時代になったことで、差別は減ったように見える。黒人と白人が結婚できるようになった。女性も参政権を獲得した。ゲイだということを理由に誰かをクビにすることはできなくなった。バリアフリーの場所もどんどん増えてきた。それが地球の限られた場所だったとしても、世界は着実に変化している。しかし、このリベラルな社会に暮らす人々は実際にどれほど変わったのだろうか。社会的に弱い立場にいる人々が黙って現状を受け入れるのは「かわいそう」だから同情できるが、彼らが権利を主張した途端に「生意気だ」と感じるのはよくある反応だ。また、黒人コミュニティ内にはホモフォビアや人種差別があるから、彼らは権利を主張する立場にないと考える人もいる。こうした発言の裏には社会的に弱い立場にいる人々を見下している潜在的な意識が隠れている。特定の条件下でしか支援をしないのは差別とそう変わらない。むしろ、差別そのものである。
リベラルに見える人たちがこうして差別意識を口にするのは珍しいことではない。差別をしてはいけない社会で生きていると、差別主義者と思われたくないからカモフラージュする人が出てくる。彼らは必ずしも差別される側を理解しようとか、社会問題について知りたいわけではない。表面を取り繕うことができればそれでいいのだ。差別を受けない立場ならそれで十分やり過ごせる。そんな人ばかりが増えて、社会が変わったと言えるのだろうか。それとも、これもまた変化の過程だと考えればいいのか。コーヒーをすすりながら、隣に座る友達と少し距離を感じた。