キャシーのトロント不思議ハッテンは、ゲイ総合情報誌『Badi』で2012年から2016年まで連載されていたコラムです。
キャシーのトロント不思議ハッテン(コラム連載アーカイブ)
最終回、ゲイとして、自分として、自由に生きるということ
今回で最終回を迎えるこのコラムを書くにあたって、そもそもどうしてバディでこの連載を書きたかったのかを振り返ってみた。東京とトロントという全く違う都市のゲイコミュニティと関わってきて、ある違いがとても心に突っかかった。どうしてゲイパレードのようなゲイリブ活動やアクティビストという存在は東京でここまで嫌われているのだろうか。ゲイ差別がなくなって、みんながオープンに暮らせる社会って素敵なことじゃないのか。当時のナイーブな自分の目にはそう映っていた。仕事先や家族からゲイであることを隠すのに神経をすり減らしている友達が「ゲイパレードなんてバカみたい」と言うのが単純に不思議だった。トロントにもゲイパレードを嫌う人がいっぱいいる。しかし、ゲイパレードやプライド関連イベントに繰り出す人たちの数はそれを遥かに超える。市民権運動が文化の一部として定着しているとか、既にゲイコミュニティ自体が成熟しているとか、その違いには様々な理由があるのだろう。
トロントでコミュニティ支援に携わりながら、様々なゲイたちと関わる機会を持てた。中学生からシニア、違う国籍や民族、障害や病と生きている人たちなど、いかに人間が複雑なのかを再確認した。綺麗に丸く収まる解決策なんてない。誰かの理想は下手すれば他の人にとっての悪夢になる。一方で、ゲイリブ活動をただ否定するのも解決にならないと感じた。人には社会を変えるために声を上げる権利がある。同性婚ができるのも、差別から保護されるのも、学校教育に性の多様性が導入されたのも、そうした声があったからだ。それらがゲイ人口全ての意見を反映するわけではないが、その変化を喜ぶ人たちの存在を否定するべきでもない。
カミングアウトしようとしまいと、それは人の勝手だ。結婚や育児なんて、長い人生の中の小さなオプションの一つに過ぎない。価値観やニーズなんて、いくらでも変わる。肝心なのは、自分らしく生きたいと思った時に、それができるかどうかだ。自分の人生の大切な選択を、他人に勝手に決められるほど悔しいことはない。東京にもトロントにも、残念ながらその自由はまだない。それを言いたくて、このコラムを書くことにしたのかもしれない。そして、今日もその自由を目指して前を歩いている。