最近、ふと思ったんだけど。
彼氏と同棲して、ゲイまっしぐらなあたし。
モノガミーで、教科書通りな恋愛をしている今。
もしかしたら近い将来に同性婚なんて話まで出て来るかもしれない。
なんかうまいこと、狭い箱の中にハマったような感じ。
なんだか退屈になったし、ある意味冒険をしなくなったというか。
自分のジェンダーやセクシュアリティをクリティカルに考えなくなった。
振り返れば、カミングアウトした頃はまだ好奇心旺盛で。
自分の本当の性やアイデンティティを開拓したくて。
女子と裸で前戯してみたり。(もちろんシラフよ!)
ステージの上でチンコを晒してみたり。(これは事故だったわ!)
パーティで可愛い男の子全員とキスしたり。(よくやるわ!)
こんな感じで、もっと自由奔放で、流動的だったわ。
もちろん、周りからはいろいろと白い目で見られたのよ。
「ゲイなのに、なんで女の子と?」
「同じゲイとして、これ以上恥を晒さないでほしいわ。」
「キャシーってヤリマンで、セックスのことしか考えてない。」
とか、散々裏と表で言われたりもした。
正直そんな周りの目なんか気にしてたら、最初からゲイなんてできないし。
気にせずに、自分の直感を信じてラディカルな生き方をしていたんだけど。
いつの間にか、便利な“ゲイ”という肩書きに心が傾いてしまった。
ラディカルなクィア友達とも、すっかり疎遠になった。
トロントのダウンタウンに限って言えば。
常識的なカナダ人からすればゲイはストレートとそこまで扱いは変わらない。
ゲイでモノガミーなカップルなら尚更“フツー”と捉えられる。
要はヘテロセクシュアルに近ければ近いほど、受けいられやすいことになる。
ゲイたちは同性婚と引き換えに性の自由と多様性を失ったと言われる時代で。
ゲイでさえ、敷かれたレールを歩かされる時代もそう遠くないのかもしれない。
あたしも知らないうちに、自分のセクシュアリティを悪魔に売ったのかした。
例えば、モダンファミリーのミッチェルとキャメロンだったり。
グリーのカートとブレインだったり。
最近のメディアが描くゲイのイメージも怖いくらい健全だ。
それでもあたしにとって“本来のゲイ”っていうのはこんな健全なものじゃないの。
思春期のあたしは、ゲイとして生きるなんて考えたことも無くて。
ただただ、自分の性の衝動に素直に従うことが大事だったの。
社会の中で恥ずかしいとか、汚いとか、気持ち悪いとか、変態だと言われようと。
そんな衝動を持って生まれたなら、健全な道よりそのけもの道を追いかけたかったの。
ハッキリに言えば、変態で良かったのよね。
開放的に、あられもない姿でセックスを楽しむ人も見ると羨ましいわ。
元をたどれば、それがあたしにとっての“ゲイ”だったの。
別にこんな健全なゲイにキャシーなっちゃったことが悪いとかじゃない。
今の彼とこうしてフツーに生活できるのは、とても贅沢なことだと思っているし。
できれば、これがこれからもっと長く続いてほしいとも願っている。
しかし、この今のライフスタイルと自分のセクシュアリティはまた違うものだ。
どこかで読んだかは忘れてしまったけど、誰かがこう書いていた。
「同性婚して家庭を築くゲイと、ハッテン場でセックスに溺れるゲイは、まったく別の生き物である。」
自分も本来はハッテン場でセックスに溺れている方の生き物なのかもしれない。
問題は、あたしが今のライフスタイルを選んだのは。
それが社会的の中で受けいられやすいからなのか。
それとも自分が本当にそれを望んだからなのか。
それか、ただ考えるのを放棄したから便利な方へと流れたのかもしれない。
正直、自分でもよくわからないし。
そもそも、そんなに白黒のない話かのかもしれない。