先日、彼氏とのデートで映画『The Help』を見てきた。
主演のエマちゃんのあまりの大根役者ぶりに驚いたけど。
脇役たちの名演が光っていて、全体的にはとてもよかった。
この映画は、1960年代の公民権運動時代を扱った作品で。
アメリカのミシシッピー州でメイドとして働く黒人女性の話である。
アメリカで奴隷が解放された100年後、黒人は未だに人種差別に苦しんでいた。
先進的な州では公民権運動が本格化するのとは逆に、この作品の舞台となるミシシッピー州では未だに裕福な白人層が黒人を酷使していた。
白人はアフリカの子供のためにチャリティーイベントを主催する傍ら、自分の家に仕える黒人メイドは汚いという理由で同じトイレさえ使わせなかった。
テレビで公民権運動のニュースが流れても、白人も黒人も、誰も声を上げない。
中でも印象的だったのは、一番の人種差別家である女性が言う台詞だ。
「そんなことをしたら、たちの悪い人種差別家に殺されるわよ!」
この台詞から読み取れるように、黒人を不平等に扱うことは当時人種差別とは捉えられていなかった、または比較的軽いものだと思われていたこと。
暴力や殺人、そんなものだけが人種差別だと考えられていたわけだ。
つまり、彼らには彼らの人種差別が見えていないことになる。
これをもっと簡単に説明すると、こうなる。
100年前は、給料もなく、家も与えられず、人間としても扱ってもらえなかった。
100年後の今、給料ももらえて、家もあって、人間として見られてるんだから。
白人の給料が10倍あったって、白人と同じトイレやバスに乗れなくても。
文句なんて言ったら罰が当たるよ、ということである。
このシーンを見て、なぜかあたしは今のトロントを思い浮かべた。
トロントは多文化が共存している都市として認知されている。
移民へのサポートや、リベラルな政策で、世界で最も暮らしやすい場所の一つとして上位にランクインしているにも確かだ。
しかし、トロントに人種差別がないのかというとそうではない。
非常に見えにくいけど、確かな人種差別は今でも存在する。
キャシーがいつか、新聞のインタビューに答えたときにそれを言ったら。
「こんなに素晴らしい街に人種差別があると文句を言うなんて、少しわがまますぎるんじゃないのか?」
と思い切りネットで批判されたことがある。
トロントの人って、人種差別に敏感に反応する人が多いのだ。
「そんなこと言っちゃダメよ。それ、人種差別よ。」
ってたまに注意をしたりするときも、目をまっ赤にして。
「僕が人種差別をするわけないだろ!」
と真っ向から否定されると、こっちがビックリする。
どうも、人種差別には出来るだけ関わりたくない風潮があるらしい。
多文化主義な街に誇りを持つのは良いが、問題を無視しだすとたちが悪い。
人間は差別をする生き物だ。
これは変えようがないし、私たちは様々な差別と共存している。
大事なのは、それを認識し、先に進もうとすることである。
キャシーだって、気付かずに失礼なことを言うことが多々ある。
そんなとき、運が良ければ正してくれる人がいて、学ぶことが出来る。
そこで心を閉ざして、自分を正当化するのは親切に正してくれた方に失礼だ。
そんなトロントは、差別を認識するよりも、頑固に正当化する方に傾いている。
「トロントってこんなに多文化が共存していて、あなたが来た国とは比べ物にならないほどステキな場所じゃない?」
とそんなことを言う人はたくさんいるけど。
「トロントは多文化が共存しているが、移民に対するサポートも、人種差別に関する取り組みも、まだまだ足りない部分がある。」
と言える人は意外と少ない。
ポジティブな面も、ネガティブな面も、共に考える必要があるのに。
ポジティブな面だけを強調して、臭いものには蓋をするのは停滞の証である。
そんな表面的な“人種差別のない街”は、この映画の舞台となった1960年代のミシシッピー州とそんなに変わらない。
トロントに来て、50点満点の生活が80点満点になったけど。
100点を目指すには、見えない天井があってこれ以上は上に行けない。
でも他の人が100点満点を取れるなら、自分もそれを目指したいのは普通でしょ?
その権利を否定されて、文句も言えないなら、人権法はただの飾りね。